「おはぎ」と「ぼたもち」はしばしばことわざに登場します。
日本人のユーモアと哀愁が相半ばした「おはぎ」と「ぼたもち」のことわざを紐解いてみました。
甘いものにかつえることがない今の時代には想像力が必要かもしれませんね。
となりのおはぎと遠くの夕立、来そうで来ない

このことわざを知ったとき、苦笑ってこういうときに使う言葉か?と思いました。
いやあ、言い得て妙!
食いしん坊な私の心を映したようなことわざじゃないですか。
私の心の景色はまず、雷が落ちるところの連想です。夜の富士山8合目で見た遠くの地に雷が絶え間なく落ちている景色を「きれいだなあ。でもあんなに雷が落ちてうるさいし、コワいだろう」と思いました。かなり遠いようで、ここまで音は全く届きませんでした。あの下は雨が降っているだろうけれど、かなり遠くですね。ここまで雨雲が来ることはないでしょう。
餅つきと違って、おはぎは静かに作れます。それにお彼岸のおはぎ、ぼたもちはどこの家でも作っているだろうから、わざわざご近所の分まで作ることもなかろうというところでしょうか。「来そうで来ない」がツボですね。
おはぎ・ぼたもちは「隣知らず」

つけば杵の音がする餅つきは隠れてつくわけにいきませんが、餅に比べるとおはぎ・ぼたもちは家の中で完結できます。いつ作ったかわからないから「隣知らず」です。
「隣に餅つく杵(きね)の音、耳に入っても口には入らぬ」

おはぎ・ぼたもちに対比させて、こんなことわざもあります。どうしてもお隣にこだわりが出てしまいますね。
正月の餅つきは臼(うす)を持ち出して一家を挙げて取り組むもの。私の子供の頃も数回ですが、ご近所何軒かで餅つきをしていたことを覚えています。牧歌的ですが、わいわいと一大事。ですが、この「何軒」か以外は蚊帳(かや)の外なワケです。そこで「隣に餅つく杵(きね)の音、耳に入っても口には入らぬ」となります。暮れも押し迫った中、うるさくてすみません。ま、お互い様ということで・・・
「棚からぼたもち」

思いがけずよいことが起こった。幸運が転がり込んできたということわざです。
昔の家は長押(なげし)があったから、二畳(にじょう)とか三畳とかの狭い部屋だとちょっと厚めの板を渡せば、釘を使わなくても棚ができました。(今も長押にハンガーを掛けたりしますが・・・)その棚にぼたもちが知らないうちに置いてあったら、そりゃ、うれしいですよね。
ぼたもちやおはぎが甘いもの、おいしいものの代表として扱われています。
「棚ぼた」とか「棚ぼた式に」など、省略形で今でもよく使っています。
「夜食過ぎてのぼたもち」

「夕飯が終わった。夜食も食べた。さあ、寝ようか」というときに出される「ぼたもち」はどうでしょう。「あ、ぼたもち、あったんだ(なら、早く言ってよ)」というシチュエーションでしょうか。うれしいけれど、どうする、今、食べようか、明日にしようかと、罪な「ぼたもち」
貴重なありがたいものでも、時期を逃すとありがたみが薄れてしまうという教えです。
「隣のぼたもち大きく見える」
「隣の芝生は青く見える」と同じ心理ですね。
外で食事をするときなど、自分の選んだものより隣の人の注文品の方がおいしそうに見えることってありませんか。私はいつもです。なので、なるべく隣の人と同じものを注文するようにしました。シェアすればすむ話ですが、実はそれも好きではないんです。できれば自分のイメージしたように一皿を食べていきたいので、シェアするとその食べる過程のイメージがなし崩しになるからです。同じものにすれば隣と心の中で比べることもありませんし、シェアもしなくていいですもんね。多種類のものを味わってみたい方もいらっしゃるので、どうしたものかと考え中です。
「ぼたもちで頬(ほお)をたたかれるよう」
「思ってもみなかった幸運に見舞われること」あるいは「とても気持ちがいいこと」だそうです。
「たとえ」の表現でしょうけれど、頬にあんこがつきます。それを手で拭い取りなめる?
なにかで、ペナルティを課されることになったけれど、かえって、こちらに都合がよかった。というような場面でしょうか。
おはぎ・ぼたもちの存在感と地域社会の距離感が時代とともに変わっている
現在はおいしいものがあふれるほどにある時代です。
特に日本では国内だけでなく、世界中からおいしいものが集まってきます。菓子類もしかりです。
ですが、菓子の種類も少なく、食べる機会も限られていた時代にはおはぎ・ぼたもちはとても存在感があったものだったのですね。
そしておはぎ・ぼたもちは単なる甘味ではなくご先祖さまにまずお供えしてからいただくもの。
あんは小豆の赤色が邪気を払うという信仰とも合わさった特別な食べ物です。春秋のお彼岸には多めに作って、ご近所にも配ったことでしょう。うちでも作るけれど、お隣のものも到来物としてお供えしてからいただいたものと思います。
いわば多めに作って配るのは小さなコミュニティの維持に欠かせないものだったと思います。
ただ行き過ぎると息苦しくもある。今回はうちだけで食べようとなる「隣知らず」もたまにはあったようですね。
お彼岸については以下の記事もご参照ください。
【まとめ】おはぎ・ぼたもちはとても存在感がある食べものでした
お彼岸の行事に深く結びついたおはぎ・ぼたもちは生活に深く根付いて、数々のことわざを生み出す存在感のある食べ物です。
地域のコミュニティの維持にも大切な「お裾分け」の文化が変化しています。
コンビニがないと、もはや不安な現在の社会です。「豊かさ」とはどんな生活だろうと考えますが、便利さは手放せない、そんなことを思います。
お読みいただきありがとうございました。
〈参考〉
全国学校給食協会:食のことわざ春夏秋冬
☆管理栄養士 すずまり が書きました。
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